松村上久郎のブログ

ブログです。

俺の仏教デッキを展開するぜ!①

私の仏教デッキを気兼ねなく展開するのにどこがいいだろうかと考えて、

結局ブログになんとなく連載する形が良いのではないかと結論したので、やります。

 

今日はブログでは初回なので「仏教は何を目指した教えなん?」についてお話しします。

日本人が知らないブッダの話 ― お釈迦さまの生涯の意外な真相 (スマナサーラ長老クラシックス) 

 

※このブログでいう仏教は、原則的に初期仏教・上座部仏教テーラワーダ仏教)のことを指します。要するに、ブッダ本人はなんて言ってたんですか?」と言う喋り方をします。

※基本的にはアルボムッレ・スマナサーラというスリランカ出身のお坊さんの本や動画で勉強したことが中心です。なので偏りはあるし私の理解が半端な部分もあるかと思います。ご了承ください。

 

仏教は何を目指しているのか?

 簡単な言葉で言えば「苦しみを乗り越える」ことを目指しています。

 もっとざっくり言うと「幸せになるため」にトライするわけですね。

 で、そのために説法を聞いて勉強したり、瞑想修行をしてみることになります。

 そんなわけで根本的には、自分で頑張って幸せになってね、と言う自助努力論が仏教のマインドとしてあるわけです。

 

 

仏教でいう「幸せ」ってなんなん?

 世間で「幸せってなんだ?」と言う議論になると、まあ、ロクな結論は出ないんですね。

 金が一番って言う人、異性と好きなだけ遊びたい人、とにかく有名になりたい人、などなどいろいろです。「歴史に残ること」と言う人もいる。

 でも、どれも「最終的な結論」と言うほどしっかりした結論ではないわけです。俗世間を眺めて見つかる「幸せ」はそう言う程度なんですね。「誰にとってもこの状態が幸せだ」と言う、あの確かな感じはないんです。

 財産なんかは、あったらあったで敵も増えるし。欠点が必ず見つかる。不満ですね。

 

 で、仏教はどう言う状態を幸せと呼ぶのか。

 ストレートに言うと、「不満のない状態が幸せだよ」と言います。

 不満さえなければ、もう、タテのものをヨコにする必要すらないわけですね。

 「もうこれ以上やることはない」ので、それは人生のゴールに達した状態と言えます。

 仏教ではその「はい、ゴールしました」と言う状態を修行で目指すわけです。

 

 

・その「不満のない状態」ってなんなん?

 で、その「不満のない状態」ってそもそもなんなんや、って言う疑問が当然あると思います。一応、今まで個人的に調べた中で一番わかりやすい説明があるので紹介します。

 

 「今の暮らしはうまく行ってるし、とくに問題はないはず。なんだけど、何か足りない気がする......」という、あの気分。

 「なんかわかんないんだけど、なんかが足りないなぁ」という。あの気分。わかりますか?

 

 それがなくなった状態のこと、だそうです。

 ピンとこない場合は、今はとりあえず「ゴタゴタしたものがスッキリ片付いたような状態」くらいのところをなんとなく想像するくらいでもいいかもしれません。知らんけど。

 

 

・確かに「不満」が不幸の原因っぽい

 この、「不満」にチャレンジするというのが仏教の「革命」ポイントなんですね。これがとても重要なポイントです。(不満、と言う言葉がまだピンとこない人は「執着」という言葉で良いと思います)

 実際、この「不満」と言うたった一言で俗世間のトラブルはだいたい説明がついてしまいます。

 不満があるから喧嘩するわ、人のものも盗るわ、嘘もつくわ、生き物も殺すわ、浮気や不倫もするわ...ということで、生きていることのトラブルはこの「不満」が原因なのですね。

 

 じゃあ、トラブルの原因を取り除いてみましょうか、ということになるわけです。

 話は至ってシンプルですね。ややこしくない。

 

 

「不満の絶えない、キリのない生き方」を乗り越えることにチャレンジしてみる

 まとめます。

 仏教では、自分が抱えている不満に対して”何がそんなに不満なんですか?”とあえて調べてみる。調べてみると、「あれっ、そんなに執着するほどでもなかったやん」ということを発見して、ホッとする。そういう状態を仏教では目指しているわけです。

 

 これ以降は、必ず瞑想しないといけないのか〜とか、「これって仏教的にどうなん?」みたいな小話とか、一回でできない話をちょこちょこしていこうかと思います。気まぐれですけど。

 では、また。