松村上久郎のブログ

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読者にオチを読ませない「さよなら絵梨」のラスト前に仕組まれた巧みな罠について(個人の感想、ネタばれあり)

藤本タツキ先生の200ページ読み切り

「さよなら絵梨」を読んだので感想かくで~

!!!ネタばれがあるので注意!!!

 

shonenjumpplus.com

 

・映画を意識した横固定のコマ+要所での大ゴマ

映画製作というテーマで一貫している漫画作品だったこともあって、

コマのかたちがほぼほぼヨコイチで固定されて進行。

漫画は「紙の上でやる映画」とはよく言いますが、

実際の映画は漫画のように画面(コマ)が縦になったり横になったりしないので、

あきらかに本チャンの「映画」を意識したページ構成が目立ったでした。

 

・映画1本分を”ちゃんと”漫画にするとこういうページ数になるという好例

チェンソーマン」でもわかるとおり、タツキ先生ははっきりと「漫画=映画」というつもりで画面構成・構図をやってる人なんだとおもうので、

このコマ割り進行はずっとやりかったんやろなという感じがしたです。

コマの形が一定でも全く窮屈感なく楽しめたのは構図が良いから。

 

しかしこのやり方をやると1ページがたった4コマで消費されてしまうので

濃厚な映画一本分のストーリーをまともにやろうとすると150~200ページになってしまうわけです。たぶん。

通常の紙の商業誌の読み切りの分量でこのコマ割りは現実的ではないので、

こういう漫画の読み方ができる現代のわいらは確実に幸せとおもうマンです。

 

あと、要所要所ではちゃんと1ページぶち抜きのコマを使ったりして、漫画という媒体の強さも利用してパンチ食らわせるところはちゃんと武器使うってかんじでよかった。

 

・手元のスマートフォンでの撮影の生活感によるマジック

どこまでが「漫画の中で撮っている映画(主人公が手で持ったカメラで撮ってるもの)」で、どこからが「今おれたちがほんとうに見せられている映画(「さよなら絵梨」そのもの)」なのか。

そこの境界を意図的に行ったり来たりして、「なんだ、演技か」とおもってほっとしていたところに「え、まじで?」となる展開を持ってきたりして、読み手が安心しきらないように作っている気がした。しらんけど。

ちゃんと主人公がカメラをスタンドにセットしてとっているときは手振れ効果は描かれず、手に取っているときはこまめに手振れを入れる。まめ。

あとカメラを持っている手がバッと動いて画面の角度ががっと変わるとかそういう手撮り感もこだわっててよかったまる。

 

・ラストシーンに仕組まれた罠

で。主人公が大人になって、家族と父を事故で亡くして。思い出の廃墟ビル。

絵梨さん再登場。

あそこのシーンからはカメラの台数がいきなり増えるんです。

あきらかに主人公のスマホ1台じゃない。主人公の一人称視点じゃない。

めちゃわざとらしくイマジナリーラインこえてるシーンもあるし。

 

だから「もうファンタジーじゃないよ」「もう映画じゃないよ(スマホ撮影じゃないよ)」という宣言が画面で暗になされているわけです。

それまでずっと一人称で撮った映画(ファンタジー)をわたしたちはみせられていたわけですから。(実際、絵梨本人も吸血鬼でありながら「それはファンタジーじゃない」と言い放っているわけです)

 

いままで「あれ?今は映画の話?現実の話?」って揺さぶられてきたので、こういうカメラワークになったので、おやおや、どうやらおれたちやっと「現実」に戻ってきたのかな?とだまされる。

 

で、「そうそう、いまはファンタジーじゃないですよ」という宣言をずっとやっておいて、最後にどかんと爆発してファンタジーをいれるわけなのです。

そりゃあずるいよ先生。

 

 

・救いの爆発オチ

なにはともあれ、最後にあの爆発オチを持ってくることで「はい!!!!!こういう「映画」でした!!!!!!!!!!!!!!デュッデュ!!!!!!」という風に描くことで、

最後に読者は草をはやしながら安心しつつも「やられた!」という謎の読後感を満喫する感じなんやと思う。わいはほっとした。いい映画だった。

 

・「あ、これ映画だった」という安心感が生まれる瞬間

からくりサーカス」っていう藤田和日郎先生の漫画があるんです。

あれはあれで、劇中でキャラクターが壮絶な最期を迎えたりいろいろしてしんどい場面も多いお話なんですけど。

でも最後の最後に、それまでの主要な登場人物がフィナーレで再登場して「いままでのお話はサーカスの舞台上でのおはなし(フィクション)だったんやで~~~!」と大団円を組んで華々しく終わる、という演出があるんです。

で、やっぱりちょっとほっとするんですよ。あれを見せられると。

あんとき死んだキャラクターは「そういう演技」だったんやでと。

心配しなくてええんやで、という。

「漫画のキャラクターたちが、漫画の中で映画・舞台、フィクションをやっている」という仕組みにすることで、わいらが劇中で味わった苦しみ(キャラクターの死とか)をなんというか救うことができるわけです。うまくいえないけど。

最後の爆発オチはそういう効果もあって、人によっては精神的にかなりスッとした読後感を味わったんじゃないかなと思うマンです。わいはすくわれたほう。

 

・男は女を救えるか

さて。一度自殺まで考えた主人公だったが、きれいな女の子に「きみ超いいよ」って言われたら一転元気になって「自殺なんてやめておけ!メメントモリ!」とかぬかすまで回復する。男なんてそんなもんだっていう描写も「そうなんだよなぁ」という感じで好き。

女は男を救える。これポイント。

しかし、逆はというとやっぱりできてるようでできてないんであります。

 

絵梨は吸血鬼なのでもともとほぼほぼ不死身で。主人公が絵梨にしてあげられることはほぼほぼない感じで。ぎり映画撮っておくぐらい。

それってやっぱり「吸血鬼の養分になってる」っていうかんじで。

男が女を救っている、というよりは、まあ、養分になってますっていうかんじ。

救うことと養分になることってやっぱちがうよねっていうあれはある。

 

・この世を支配しているのは女

なんかこういう、「女には勝てません」みたいなエッセンスってチェンソーマンでもマキマさんとかがそんなかんじで出るじゃないですか。

男が女に勝つにはなんかこう、もう、裏技でも使うしかないなって感じ。

タツキ先生もわりとそういう男女観なのかなーと邪推してなるほどと思うなどして感想文を終わる村。