まちゅむらです。
宮崎駿の「君たちはどう生きるか」をさきほど観てきて帰ってきました。
とにかくいまのうちに感想をネタバレコミコミで描いておきます。
あと個人的な解釈を添えるかんじなのでご了承。
・とにかくわけがわからなかったが、最後になぞの納得感が残る映画
あれよあれよと目まぐるしく展開して2時間ちょいがあっというまに終わりました。
あれがこうで、たぶんこれがああで、あれはどういう意味か、と考える暇もないくらいだったので超忙しいし、多分小学生とかこどもがみても「????」となるかんじの映画だと思いました。
宮崎駿が「引退しながら制作した映画」というのは多分そういう意味で、こどもが観てシンプルに楽しめるという感じではなかった気がする。
それにもかかわらず、なんというかこう、なんか最後には謎の納得感がある(理解した、という意味では必ずしもない)。そういう意味で、はげしく大人向けといえる。
なんつーアクロバティックな映画を作るんだろうかこの爺さんは、と思ったりしやした。
以下、なんか思い出せるシーンについてつらつら書くです。
まぢでまとまりがないけどごめんね。なにせあんなどやばい映画だったものですから、感想もしっちゃかめっちゃかです。
・広告宣伝を打たなくて正解?
映画全体を見るとたぶん共感してくれる人もいると思うんですけど、
予告編を作るのにはひたすら向いていない。どこか切り取っても、絵になるにはなるかもしれないけど、映画そのものの説明にならない、というシーンが多すぎる。
もしこれで無理やり予告編をつくって下手に宣伝しまくってたら、それだけで今作が「凡作」になっていた可能性はかなりあると思った。
そこを事前に見破った鈴木敏夫はやばいなとおもった。
・若くなったキリコ?さんで童貞を捨てる主人公
異世界に迷い込んだとき、若くなってるキリコさん(名前あってるか?)が男勝りかつセクシー。明らかに意図してセクシーに描かれている。胸元が開いてるし、ずんずん胸がアップになるカットもあり、折に触れて胸の谷間が描かれる。最後には主人公のマヒトが「ありがとう!」といって抱きついて胸に顔を埋める始末。
物語の作りの話で、主人公の男の子が象徴的に童貞を捨てて「いちにんまえのおとこ」になる過程というのが描かれたりするわけですが、あのへんはたぶんそれ。主人公はばあさんで童貞を(象徴的に)捨てたことになる。のか?謎。
(あとキリコさんが「殺すのはわたしのしごと」と言っている。上の世代は戦争という形ではあったがたしかに国を守るということをなんとか懸命にやったりしていた。歴史のあやまちなどももちろんあったろうが、今の日本人は「殺す」ということからも遠ざけられて極めてボサッとしたなにかになっているともいえる。いまの日本が国家として自立しているとは言い難い的な皮肉のようなきもしたが考え過ぎかもしれない。)
・わらわらすみっコぐらし=日本のこども、ペリカン=日本の高齢者、インコ=日本の若者?
わらわらっていう、こだまとトトロの中間生成物みたいなのが空に登って行って現世でこどもになるっちゅうシーン。そこにペリカンが来てもりもり食べてしまう。
たぶん日本の若者を食い物にしている(どころか、うまれてくることさえも邪魔している!)日本の高齢者、みたいな構図なんでないかと思ったり(個人的な感想)。
ペリカンも最終的に火に焼かれて(老病死)、作中で1匹死んで主人公に埋められているわけですしおすし。
あとフィナーレで現世に戻ってきたとき、ペリカン(高齢者)がインコ(日本の若者?)よりも大勢で幅を効かせて湖を陣取っているところをみるとやっぱりそんな解釈ができそうと勝手に思ってみるなど。
で、インコで「ここは天国か!?」「すばらしい!」とかむやみに感動したり、インコの王様の適当なポエムに感動してバンザイ!とかやっちゃうあれは、たぶん今の日本国民の大部分。いろんなコンテンツをむやみやたらに消化して、よく調べもしないで鵜呑みにしてよろこんでいる愚か者の群れという感じ。
夢の世界(ネット?)の外にでて現世にくると一気にしぼんでふつうのインコになるのもリアル。
総じて、今の日本は天国にみせかけた地獄、ということみたいです。
(ところで、フィナーレで現世に戻ってきて家族3人でインコのフンにまみれて抱き合っているシーン。御婦人の顔にしっかりフンがかかっている。この世は汚くも美しい。汚い世の中にあって美しさは成立する)
・アオサギがかっこよかったのもポスターだけだった
アオサギ、まさかポスターまで嘘つきだったとは。
・ビリビリする石は「クリエイターのプライド」?
なんか触ったらビリビリする石の壁。
あれはたぶん宮崎駿のクリエイターとしてのプライドで、やっぱり誰かズカズカ入ってきたらムカつくってことだと思う。単純に。
・この世はどこもかしこもメンテナンス中、安定は成立しない
最後にでてきたじーさんはやっぱり宮崎駿本人って感じで。
なぞの積み木を組み立てて「これで1日は持つ」「1日しか持たないんですか!?」という会話。
日本のいまの「平和」とか、安定みたいなものも結局幻で、いまいきている人間たちが毎日一生懸命メンテをして「1日ずつ」持たせている、というのが社会のほんとうのすがたで、それは昔も今もほんとうは変わらんのだよと。
「安定なんてものは存在しない、理想の安定なんてものも現実じゃない」と、
ちゃんと理解している人間、現実の厳しさを知っている者にこそ後を継いでほしいという話にきこえたわけです。
(「風立ちぬ」でも、結核を患いながらも残された日々を賢明に生きる菜穂子さんとジローはそういう描かれ方をしたと思うし。細く長く長生きするためというより、今できることを懸命にやりきる、1日を大切に懸命に生きるべきだという方向性は一貫していると思う)
安定なんてものはねえ、おめえがやるんだよ!ということみたいで。
なんだやっぱり説教じゃないか!と言えそうですが、不思議と嫌な感じがするものではなかったので不思議。こりゃホント不思議。
・宮崎駿の後継者?
宮崎駿の視点からみた「後継者が育っていない」という焦り。
これが、いちクリエイターとしての立場での話なのか、「日本人そのもの」としての話なのか、あるいは両方、という感じはするわけですが、
個人的には今回はかなりクリエイター寄りの遺言なんじゃないかな、という気もしていてよくわかりません。
なんとなく、クリエイターに向けて「お前ら!俺本当にもうすぐいなくなるからがんばれよ本当に!!」と発破をかけているかんじがして。
個人的にはほんとうに、いちクリエイターとしてすごくこう、
「あ、おれががんばんないといけないんだ。」という気にはなっているんです。
今すぐ何をするべきか、とわからなくても、なんとかせな、なにかせな、という気持ちになったひとはいるはず。
多分そういうきもちになったひとはほかにもたくさんいるとおもう。
そのふわっとした「なにか」から一歩でも2歩でも出てみせねばならないわけです。
・「もののけ姫」をやったころの子どもが今30~40代になっている
もののけ姫が公開されたとき、わいは小学2年生で。
もののけ姫の時点で当時のワイには結構難しかったものの「なんか難しい宿題を出されてしまったな」という感覚だけふんわりとあったわけです。
なんとなくですけども、あれから20年くらい経過した今、
「さあ、お前ら、次はお前らの番だからそろそろしゃんとしろ、どうするか選べ!」といよいよなにか世代としての回答を迫られているような感じはするわけです。
宮さんはいつでもその時代のこどもたちのためにアニメ映画をやってきたわけですが、そのこどもたちももう大人ですから。やはりなにかはせねばならない。
そういう意味で、そろそろお前ら本当にがんばれよ、って、やっぱり今の30~40代に主に話しかけてるような気がしてならないわけです。
まとめ:「なんかせな...!」と思った。
「風立ちぬ」を観たときも「なんとかせな...」と思ったけど、今回はなんというか、より逼迫した「なんとかせな....!!!」というかんじ。
ほんとうに、わたしたちを叱ってくれるおじいちゃんはもうすぐいなくなってしまいます。戦争を経験した世代がいなくなるという意味も含めてそう。
一体なにをもってして「宮崎駿の後継者」たりえるかは謎なのですけど、
それぞれ自分の立場でなにを社会にプラスアルファできるかちゃんとやっていこうぜ的な、地道なことも当然含まれつつ。
ああもう、どうしましょう。
自分自身がクリエイターとしてどのくらいスケールアップするべきなのかみたいなことも含めていよいよちゃんと考えなければいけなくなってきてこんがらがってきました
とりあえず自分のバンドデシネを頑張ろう。。。(なにはともあれ昨日入稿したし!)
自分の神戸の個展やyoutubeを頑張ろう。。。
そんな気持ちだけ新たにして、今日は寝るです。。。
さて、わたしはどう生きてやろうかしらん。