松村上久郎のブログ

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介護はむなしいのか?仏教の視点から考えてみた

 若い人が近親者の介護を苦に殺人を犯したり心中を図ったり、と言ったニュースが増えてきた印象があります。

 こういう事件が起こると「高齢者介護は生産性がないから安楽死を合法化するべきだ」と言った論調が強まります。

 ちょうど良い機会なので、仏教的な観点から以下の2つについて考えてみようと思います。

 

つまり、

①高齢者の介護は本当に生産性がないのか?

安楽死って仏教的にはアウト?セーフ?

この2つについて仏教的にアプローチしてみます。

※例によってここでいう仏教は「初期仏教(上座部仏教)」を元にしています。

 

老いていく親が重荷ですか。: ブッダから学ぶ、正しい介護との向き合い方とは

 

・そもそも「生産性」ってなんだ?

 

 この話をするにはそもそも「生産性」という言葉をちゃんと定義しないといけません。

 結局は、俗世間でいう生産性と、仏教でいう生産性は異なるのですね。つまり、

 

 ・俗世間でいう生産性=金になる、財産が増える、将来性がある(未来がある)

 ・仏教でいう生産性=心が豊かになる、人格レベルが向上する

  簡単にはこのようになります。

 

 

 

・介護は、俗世間では「負担」、仏教では「チャンス」

 

 世間と仏教で「生産性」の定義が違います。なので当然結論も変わります。

 俗世間では高齢者介護はただの「負担」ですね。金が出ていくだけ。時間もかかる。口では優しく介護していても心では「早く逝ってくれれば楽なのに」とか思っちゃう。

 

 一方で仏教では、介護は「困っている人を助けるチャンス」と捉えます。

 実際、困ってる人を助けたら徳は積んでいるんですね。性格も良くなる。

 いいことづくめです。仏教では一応、そっちをオススメするわけですね。

 

 

 

・命を助ける行為は善行為です

 

 仏教では生命を助けることは善行為であると断言するんです。徳を積む行為でもあります。

 これは、助けが必要な生命を助ける。悩みや苦しみが少しでもなくなるようにと努力することなんです。

 

 なので当然、高齢者介護は善行為です。

 同様に、子育てや病人の介護、他の困っている生命を助ける(海のゴミを片付ける、怪我している動物を助ける、など)も善行為です。

 

 ポイントはですね、これらをきちんとやったら自分が並ではない人間になるんですね。

 自分の利益ばっかり考えて生きる、サルみたいな生き方から離れる。

 儲かる儲からないではなく「それが必要だから」ということで助ける。

 困ってるんだから助ける。ただそれだけ。欲が動機、じゃあないんですね。

 

 

 

・欲から離れると本人が楽になる

 

 欲から離れて行動した人間は、たしかに人格者と言えるんです。

 

 猿を卒業してるんですからね。自分だけ儲かればいいっていうのは猿でもやってるんです。

 猿でもやってることを人間がやって自慢できる?怪しいね。

 では、猿にはできない上級のことをしようではないかと頑張ってみる。

 欲から、怒りから離れて生きてみようではないかと言う道で頑張る。

 すると、苦労しながらもやっているうちに、猿をやめている。本当に人間になる。

 ちょっと雑な説明ですが、一応、そういう理屈があります。

 

 (動物は介護なんかしないしね。あっちは、ケガしたり病気になったやつはその辺で4んどけ、って言う厳しい世界です。人間がそう言う次元に落ちたら、単純に、それってカッコいいんですかね?と言うセンスの問題も含んでる)

 

 それでまあ、欲から離れるとどうなるかと言うと、本人がすごく落ち着く。

 あれも欲しい、これも欲しいと言うあの追われた感じがなくなってホッとするんですね。

 それが仏教のオススメする「副作用のない幸福」と言うわけです。

 

 

 

・では、追い詰められてでも「介護」をすべきなのか?

 

 さて、そこまで話して、先日起こった事件のお話に戻ります。

 果たして自分の暮らしの何もかもを犠牲にしてまで善行為に励むべきか?という問題です。

 

 親族の助けも社会の助けも得られずに、ただただ慣れない社会人生活と叔母の介護に追われて消耗していくしかなかった人に向かって、

 「人格向上になるんだから踏ん張れ」って言うべきだろうか?

 

 

 仏教的にはですね。自分の幸福を犠牲にしてまで社会貢献するものではない、と一応言っています。

 自分の心身の健康を失ってまで誰かの介護をするとか、そこまで無茶するんでなくて、自分も含めて、自分のまわりも幸せになるように工夫してください、というわけです。

 

 自分一人で「あれもこれもやらなきゃ」とする必要は全くなかったんです。

 ただ、今回はですね。それをやる余裕を社会が個人に与えなかったんです。

 誰も彼/彼女を助けなかった。問題がそこにあるんです。

 

 

・社会問題は個人レベルではなく社会全体で取り組むべき

 

 これは社会の問題なんですね。周囲の人間も、公的機関も手を差し伸べなかったというその、「俺は忙しい、そっちで勝手にやってくれ」という社会の生活態度や仕組みそのものが問題なんです。

 

 社会の問題には、個人で挑んでも限界がすぐに出るんです。だからこれは社会が取り組むべき問題です。

 

 (本人が殺生を犯してしまったことは、本人の問題として確かにある。自分の怒りに負けて、殺してしまった。それは事実。しかし「お前は自分の心に負けたのだ。悪業を犯した。なんてことをしたのか」とかね。さらに追い詰めるようなことをズケズケと言うのは仏教としては反対なんですね。それではさらに差別していじめているだけ。仏教は差別には反対です。そこでさらに追い詰めたって仕方がないんです。)

 

 

 

 

・まとめ

 長くなってしまいました。まとめます。

 

 ・仏教では介護は善行為ですから、介護そのものは決してむなしくありません

 ・善行為とは、自分を含めた、周囲の人間や社会全体が幸福になるようにバランスをとりながら行うべきことです

 ・それぞれの個人が、どのようなシチュエーションにおいても落ち着いて生活するために環境を整えるのは社会全体で取り組むべき課題です

 

 

安楽死についての問題は次回以降。では、また。