松村上久郎のブログ

ブログです。

平成という時代の「寒さ」の正体

1960年代の学生運動の映像なんかを見ると、

「昔の学生はこんなテンションだったんだ」と圧倒されたり、

不謹慎ながら「こんなふうに使命感を帯びて生きるのは楽しそうだな」とか思ったりするわけであります。

  

 

昔の大学生に比べて、いまの大学生はなんと落ちぶれたことか、とか

世間では、ついそういう論調になりがちなのですが、

そもそも昔と今ではいろいろと条件が違うのですね。

 

たとえば、当時の進学率は全体で10~%20%くらいだったみたいです。

今がだいたい60%弱くらいなので、いまみたいにわんさかいるわけではないわけです。

で、当時の大学生がどんなテンションだったかというと

「自分たちは選ばれた人間なのだから、公共のためになにかせねばならない」

という雰囲気だったそうです(エリート思想が強い、という意味ではないらしい)。

実際いまなんかよりうんと少ないので、間違いではないわけです。

 

そういう意識もあって、安保騒動で東大でたてこもったり新宿駅で機動隊が出動するような暴動を起こしたりしたわけです。

「おれたちがなんかしなきゃあかん」というあれがあったという。

 

 

で、いまの若い私たちにそういうマインドが欠けている気がする、というのは上の世代にも指摘されているし、本人たちも「昔の学生のほうが熱心だったんだろうな」とどっかでなんとなくは感じてるんだと思うんです。私も思います。

でも一方で、「おれが世界を変えるんだ」「おれが日本を変えるんだ」とか、いざ口に出したりすると、これは非常に寒いわけです。

田舎のDJが「ここが俺らのストリートっしょ!!」的なことをいうときの寒さに似てるというか。「あっそう。がんばったら?」みたいな感じがどこかにある。あるいは「うちらズっ友だよね!」っていっちゃうあれ。「どうせどこかで切れるんやろうなぁ」というあれ。

そういう感覚も、若いぼくらからすれば否めないわけです。

 

使命感が足りていない気は、正直する。

しかしいざ使命に燃えたら、まあ寒い。

燃えても燃えなくてもモヤっとするもどかしさが、そこかしこに横たわっていた。

それが平成という時代だったとおもう。

 

 

 

で、個人的に考えてみたんです。いま、なんで寒いのかと。

原因は「担おうとする使命がいちいちデカすぎる」ことだと思うんですね。

 

学生運動が盛んだったときは「おれたちが」「日本を」なんとかするということで活動していた。目的はでかいけど、主語もおおきかったわけです。

ある一定の規模の団体がさきにあって、それでああいう現象があったわけです。

社会を変えようと思ったら社会グループを作るんです。それが理性的です。

個人では無理ですね。個人とはちっぽけなんです。

 

で、平成で語られた夢の寒さは、個人が個人のまま使命(あるいは夢)を全うしようとする分不相応さにあると思ったわけです。目的はでかいのに、個人はちいさいまま。ちっぽけなままでなにかをしようとしている。よって、寒い。

実際、子供たちに対して、個人個人の「夢」を語らせたり「個性を尊重しよう」という教育方針がなーんかでてきたのも平成ですね。
「夢」がどうこうっていう教育も結局なんか寒いんですね。「おまえらはちっぽけだ」とかね、教えてくれませんから。個人の力の小ささを同時に教えるべきだった。やったらヒンシュクものだったんだろうけど。

 

個人はだれだってちっぽけなので、夢を語ると寒くはなるんです。それはそういう力学だと思いますね。

野球選手になりたいとか、いろいろありますけど。周囲の大人や友人が協力してはじめて成立するんですね。あるいは、先人のリソースを活用することが前提にあるんです。そういうのをさっぱり無視して「夢」とか言っても、それは寒いんです。

 

先の戦争の反省から「全体→個人」っていうベクトルが働いた。でも「使命」だけ大きいままで、そのバランスがとれないまま平成はズルズルと終わりを迎えてしまった。そんな感じがします。

 

ではこれからの私たちの、わかもののあるべき態度はなんだろうかと。

それは「身の丈に合った使命」に目覚めることだと思います。

(大きい夢を語ることはいいんだけど、そのためには、大きいグループを形成すること(あるいは、せめて意識すること)を無視したら寒いからいいかげんそろそろ気を付けたほうがいいということです。)

 

「身の丈に合った使命」とはなんぞや。

たとえば私の場合は、日本でバンドデシネ作家として活動してみるとか。

昨日よりもうちょこっとましな絵をかいてみるとか。

ペン画楽しいよって誘ってみる。そんな程度ですね。

 

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最近描いた絵の一部。帆船は個人的に最も洗練された「建築」である。また違う記事でしゃべります。

こういう話をすると、「身の丈に合う=ちっぽけ」と思ってやる気がでない人もいると思う。

そういう人は、「身の丈に合う”珍しい”使命」を見つけたらいいと思う。

私は私で、「バンドデシネ」っていう海外コミックの形式をわざわざ日本でやってみようということで。ニッチなことを選んだわけです。ジャンプ目指すんじゃなくて。

 

ニッチな仕事を自分で選んだら、自分がさぼったらその業界は止まるわけです。

じゃあさぼれないね、俺がさぼってはいかんね、ということで、

そこで使命感がじわっとでてくるわけです。

おれがやらなあかんな、というあれ。ちょっとほしかったあれが出る。

そしたら、なんか一生取り組めそうなテーマがちゃんと目の前に現れるので、

それはまあ、ちゃんとやれば楽しくなってくるはずなんです。

 

そんなかんじでした。ではまた。

 

 

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