松村上久郎のブログ

ブログです。

AIが絵を描く時代について絵描きが思うこと

AIが達者な絵を描いてくれた!的なツイートでタイムラインが埋め尽くされたり、

「そのイラスト生産AI、近々無料で使えるように公開するでー」なんてニュースが出回ったりしてるそうです。ついでに日記。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

・写真が誕生したときとおんなじくらいの「危機」らしい?

 写真が発明されたときも「絵ってオワコンじゃね?w」みたいな雰囲気がわりと流れた、なんて話も歴史的にあるので、

この「お絵描きAI」登場と拡散によって多少なりとも生まれる「絵描きってオワコンじゃね?w」の波に、時代の絵描きはいま一度耐えたり工夫したり、なんかしなきゃいけなかったりしそうな感じはあるわけです。

一応絵をかいて暮らしている人間なので、現時点でどう思っているか人間一人分書いておこうかなと思います。

 

・絵描きはAIによって死ぬのか?

 個人的には、AIはどこまで行っても「文房具」という認識で。

 言ってみれば、いま私たちが使ってる液タブやお絵描きソフトも「文房具」で、お絵かきAIもその仲間だと思うわけです。

 で、AIに仕事を奪われる、というよりは、

 「AIを文房具として活用できる絵描き」とそうじゃない絵描きの間に、ある種の雇用格差とかが生まれうるのかな、という認識。

 

・人間は人間に用事がある(気がする)

 で。

 ビジネスシーンで「この背景はAIでじゅうぶんやな」という場合はあれなんやけど。

 個人的にあの人の画集がほしい!っていうシーンそのものまではさすがに消えないと思うわけです。

 (写真が生まれても、過去の画家たちの名画はかわらず楽しまれているわけですしお寿司回転ずし)

 そのへんのまあ、「人間に用事があります」みたいな雰囲気までいきなりなくなるわけじゃないというか、

 人間はあくまで人間に用事があるというのは、100年200年という単位ではさすがに変わらんやろ、と個人的には楽観的に構えるなど。

  

・AIがいようといまいと、どうせ描きたい人は描く。が...

 これはこないだツイッターでもつぶやいたけど、

 自動車が発明されても陸上選手が己の限界に挑戦することをやめないように、

 絵描きもやっぱり、自分の中から何がでてくるかという挑戦はするでしょう。

 (手がうまくかけた!みたいな達成感はそれ自体が楽しいですし)

 

 ただ、陸上選手でも出かけるときや遠征のときは普通に自動車や飛行機に乗るわけです。

 そんなかんじで、活用できるひととできない人の格差は出そうだし、そういうかんじの格差自体は別に今に始まった話じゃあないかな、という印象。

 

・わたしたちの本当の課題

 自分自身のセンスや、「今自分が感じていることへの信頼感」というものが、結局はAIの登場でもう1段階揺らいでいくっていう危機感はあるわけです。

 

 わたしたちがAIに頼りたい心理ってなんなのかというと、

 それは「まっすぐした線を引きたいけど自分では無理だから定規でやる」というあの気持ちの延長だと思うわけです。

 たとえば自分自身の「からだのつかいかた」とかスキルを信じられる場合、ある程度文房具に頼らずやっていけるわけですが、そこまでいくためには修練が必要なわけで。誰もができるわけでもない。

 

 道具を使うのはいい。しかし、やはり道具を使った分、人間の感覚はまた1段階鈍るはずです。同時に「自分自身への信頼感」とかも何段階か減ることになる。

 

 ただでさえ現代人は「自分っていましあわせなのか?」「自分はこの仕事続けたいのか?」みたいなことすらよくわかってないわけで。

 自分のやりたい仕事すらわからない。漠然と死にたくはない、という程度の解像度で生きている。

 自分が日々何をどう感じて生きているのか、ということに信頼感がないというか、いつも疑いが残っているのでそういう感じになったりする気はするわけです。

 なんか運動を始めようではないかというときも、適当に散歩して、適度に気持ちいいくらい疲れたら適当に切り上げて帰ってこればよいのに、わざわざネットで調べて「散歩は20分以上!」とか決めてから散歩に行く。

 「自分の体」から始めるのではなく、なんか体じゃないどっかから持ってきたもので始めてしまう。

 

 「自分の感じ方」に自信がないから、「どっかから引っ張って来たもの(情報)」で生きていく生き方ばかりになってしまうという。すると、もう何分散歩したらいいのかすらわからないという。

自分のからだなのに。それってちゃんと生きてるって言えるんですか?自分の感覚なのにわからないのですか?というポイントで。

 

問題はそこだと思うわけです。生きているとは、感覚があるということなのですから。

 

・まとめ

 そういう、「自分はどう感じているのか」というところをいまいち信じられないというこの重心の浮いた感じそのものがわたしたちの課題だと思うので、

 このAI騒動で、いい機会なので、いっかいその辺にみんなの目が向いたらええんでないかなと思ったりするなど。

 

 一応そこをおさえておくならば、AIを活用するなりAIにケンカ売ってみるなり好きに過ごしたらええんでないかな派でござり申した。まる。

 

了。

AIに負けない子どもを育てる