松村上久郎のブログ

ブログです。

wordpressでHP更新するのに苦戦した話:固定ページと投稿ページの表示の関連が謎だった感じ

まちゅむらです。更新欲がすごい。(当社比)

 

ずっと機能してなかったHPの体裁をやっと少しは整えて、自分自身の更新意欲を掻き立て得るようなところまで持っていったので、どこでつまづいたか備忘録的に書いておこうと思うです。

今回の記事の流れはだいたいこんな感じ。↓

 

・固定ページと投稿ページをどう連携したらいいかわからん問題

・ヘッダーが消えたんだが!

・ギャラリーとかカテゴリ分けとかどう表示しよう問題→作った投稿カテゴリとかをメニューで子ページをホイホイ作れば大体解決!

 

では。

あ、ちなみにワイのHPは→ https://uwa-aaa.com

 

・固定ページと投稿ページをどう連携したらいいかわからん問題

 

ずっとwordpressの固定ページと投稿ページの概念(というか、表示する際の挙動というか関連付け?)みたいなのがわからんかったんやけど、なんとかなった話。

 

結局は・設定→表示設定 と進んで、

   ・投稿ページ→なんか適当な固定ページを指定。

すると、投稿した記事がその固定ページにポコポコ投げ入れられるという仕組み。

ここがよく分かってなくて「いやいや、投稿した記事どこに表示されるねん」ってずっとウワチョリしてました。

ほんとwordpress初心者ですみません。

 

・ヘッダーが消えたんだが!

 

で。肝心のその固定ページはこんな見た目。

画像では上にヘッダーメニューが見えてるけど、当初これが消えてて「どこいった!!!」ってなってた。(まあこれは、割と以前にここに書いた「邪魔なヘッダーとかフッター消すために、カスタマイズの追加CSSってとこにウンチャラ書き足したら消えた!」って喜んでる自分の記事があったから、それを見返して「ヘッダー消せ!」的記述のとこだけ消し去ってやったらOKでした)。

 

・ギャラリーとかカテゴリ分けとかどう表示しよう問題

で、個人的に頭を悩ませてた問題。

描いた絵とかのカテゴリ分けとかどうしよ問題。

結局は

・投稿→カテゴリーでこまめに更新がありそうなものをジャンル分けして、

・ギャラリーについては、固定ページで年ごとに分けて決めた画像を置いとく。で、

・最終的に外観→メニューで親ページ、子ページを振り分けて終了。

 

するとちゃんとヘッダーのメニューにプルダウンが出てくる。
投稿記事もまめにカテゴリ分けしておけばスッキリ検索できて良いという分けです。

 

あとは、固定ページごとにハイライトしたいカテゴリ記事を表示するようにしておけば、各ページを別々に更新しにいくような手間も省ける。ただその都度必要な記事を投稿しさえすれば必要な情報が見やすくHPに満遍なく表示されるというワケや。

 

 

自力でwordpress.orgでやってみて収益化もしたが根本的なカテゴライズ・記事投稿のあれこれで引っかかっててなかなか進まなかったが、「ちゃんと更新しよう」と思って腰を据えてやってみたら割と1日でなんとかなった。

「やっぱりwordpress.comにしようかな...」とか割と何度か思ったけど、Topページの絵のお題を走らせる(Javascriptを使う必要があり、wordpress.comでは対応できない)のがどうしてもやりたいので粘ってみてよかった。

まだ毎日人が来るようなコンテンツのあるHPにはなっていないのだが、豆に絵を上げるなりお絵描き講座を上げるなりして盛り上げていきたい気持ちはムンムンである。

手始めに簡単なペン画的講座か、気楽にかいた風景でも上げてることから始めてみようかしらん。

 

終わるのである。

創作活動に必要な「勢い」のはなし

まちゅむらです。

最近「勢い」について考えることが多かったので日記程度に書きます。

 

・創作活動における「勢い」って?

 

ここでいう「勢い」は、簡単に言うと

どのくらいの時間をかけて作品を1つ生み出すか、ということです。

要するに「1作品にどのくらい時間かけるべきかな?」という

創作上の議題の1つです。

ん?全然要してねえな。

 

本当に「たださっさと仕事を終わらせたい」というだけで描かれた作品だと

ただただ雑でよそよそしいものになり、毒にも薬にもなりません。

かといって「もっと、もっといいものが描けるんじゃないか」と粘りすぎると、

作品を「完成」とするタイミングを逃し、いつまでも発表に至りません。

 

つまり、ほんとうに「勢い」だけだと勢いよく駄作が生まれるだけですが、

まったく勢いに乗れないと作品は離陸できません。

なんかちょうどよい着地点はないのでしょうか?

 

・作品完成にちょうどよい「勢い」をどう決めるか?

 

この「勢い」の問題。各作家さんの作家性とか、

本人のライフステージなども絡んでくる(気がする)ので

なかなか「こうすればいい」と1つ解答が飛んでこない厄介さがあります。

(〆切がその「勢い」を生むんじゃね?という話をして終わりにすることもできますが、あえて違う観点から記事を書くずら。)

 

しかしながら、個人的に思うポイントが3つだけあるのでここに書きます。

 

①まだ1つも漫画・画集などといった「売り物」を作ってないひとは、さっさと作って売りに出すべき(はやく社会に試されるべき)

 

②すでにいくつか作品を発表・発売している作家さんは、「自分はどのくらいのページ数の本なら、1日あるいは2日、あるいは1週間で完成させられるか(ぎりぎり最低限売り物になるものが生み出せるか)」みたいな、RTA的チャレンジを一度どこかでしておくのはよいかもしれない

 

③ ①、②をやってみたうえで「やっぱり腰を据えてじっくりやりたい」という場合はそれはそれで走らせたらええんちゃう

 

以降、順番に説明するです。

 

①まだ1つも「売り物」を作ってないひと

このステージの人は、たとえばBOOTHやsuzuriなどの通販サイトでも売るものがなく、コミティアなどの創作イベントにも持っていけるアイテムがひとつもない状態の方です。

「作家としてやっていきたい、絵で食べていけるようになりたい」という気持ちがある人で、この状態が数年単位で続いている場合、ちょっとくらいは焦ったほうがいいんでないかな、と個人的には思います。

単純に、売るものがなければ収入が発生しないからです。

(学生なら一応話は別。たとえば大学出た後なんとなく「作家なりたいな~」みたいな時間を漫然と何年もすごさないことが大事)

 

「もっとうまくなってから」とか、言い分がいろいろあるかと思いますが、ここの状態はこじらせるとほんとうにきつくなるので気を付けたほうがいいと思います。

(30歳とかを過ぎてまだこの辺をやっていると、まじで次第に「社会」が応援してくれなくなってくる可能性がある。社会は冷たい。若さが味方するうちに、なるべく早いうちに社会に試されたほうがいい。と思う...)

 

で。このステージの彼らに必要なのは、

たとえばこういう「勢い」なんじゃないかなと思っています。

それは「いまは未熟でこういうレベルのものしか出せないんだけど!だいたいこういう感じのことがやりたいんです!」

ということを、まず1冊本にしてバンと出してしまう、という「勢い」です。

 

まずそこを発表しないと、周囲もあなたをどう応援したらいいかわかりません。

「どこにいきたいかもわからない」という人を周囲が応援することは難しいです。

 

「もっと達者になってから...」と先延ばしにしたい気持ちは痛いほどわかりますが、

まずは「つくって、売る」という当たり前の流れを一度でよいのでちゃんとやってください。

繰り返しですが、じゃないと収入が発生しません。さっさとなんか出してください。

で、イベントで売れなかったら、今度は違う工夫をするのみです。

イベントで売り上げを出すことは、このステージより次の問題なので、

①のステージの人はまだ心配しなくて正直結構です。

 

 

 

 

②すでに何本か漫画描いたり同人やったりなんなりしてる作家さん

何本か自分で作品を描いて発表していると、

「もっと締め切りに追われずにじっくりやったらどうなるんだろう」とか、

自分のやったことのない創作リズムにチラッと興味が沸いたりする可能性があります。

(松村自身はそうでした)

②のひとはたぶんそういう時期かも。

 

で、個人的には、このタイミングで一回創作RTAをやってみるといいんでないかなと思います。たとえば、

・物語も勢いよく終わるかんじ(整合性とかおいておく感じ)

・ページ数も4~8ページくらい

・中身は気楽にリラックスして、表紙だけは頑張る

・脱稿までに2日、長くて7日

というかんじで、とにかく自分にとってもっともコンパクトなカタチで1冊作る、という経験を何度かやっておく。(↑は一例です)

 

たぶんこれをやっておくと、最低何日あれば自分は新刊を用意できるのかがだいたいわかってくるので、とにかく精神衛生に良いです。

で、新刊のあるなしだとやっぱりイベント参加のテンションというかモチベーションみたいなものも変わります。マンネリとかにならなくていいかんじ。

 

(で。これは個人的な反省なんですけど、

②のタイミングでいきなり長編オンリーにトライして1年潜る、みたいなことをするとかえって創作ペースが狂ったりします(ナックルビッグシルエットを書いてたあたり)。

いつもと違うボリュームのものにトライするのはよいのですが、

・長編になるぶん、「つくって売る」のリズムが長くなり、創作活動の「勢い」が弱まる

・イベントに用意する「新刊」のない状態がつづいてしまい、イベント参加のモチベーションなどに支障が出る

などのはっきりとしたデメリットがでてきます。他の仕事と掛け持ちしたり、イベント近くになったら一度長編を中断して短編を作ってイベント新刊を用意する、などの賢く柔軟な対応をしたほうがよい気がします。)

 

・自分にとっていちばんコンパクトな「勢い」を知っておくことが大事

↑で説明した創作RTAの目的は、自分にとってのいちばんコンパクトな素振り(すぶり)のフォームを改めて理解することです。

 

単純に、自分のやりたい表現がよりはっきりしてきたりします。

限られた時間とページ数でむりやり作るので、

「ほんとうにやりたいことと、実際にできること」の圧縮されたものがそこに出てきます。

要するに、作家としての自己理解に大いに役立ちます。たぶん。

数本漫画を描いて「これからどうしようかな...」となっているかんじの方は、1回やってみるとなにか理解するかもしれません。

 

 

 

 

③そのうえでじっくりやりたいというじっくり勢

 

で。①とか②を経たうえで、

「長編」ですとか、制作自体が半年、1年以上にわたるような創作活動になった場合、「勢い」をどう管理するべきでしょうか、という問題。

これは今松村自身が抱えている問題なので「こうすべき」という解答を書くには至りません。書き終わったらなんかあらためてしゃべります。

 

ただ、ZEBRA短編やデザフェス新刊でちょっとコンパクトな作品をつくるのが重なったことで、自分が作品の中でやりたい「勢い」について思いがけず理解が深まった節があり、今書いている長編BD(といっても、ページ数55~70程度予定)の制作がまたやっと動きはじめた感じだったりしています。

体感ですが、あきらかにいい影響が出てきている。

 

・結論

つまり、長編にトライしているけどぐだってきた、というひとについては、あえて気晴らしに短編を書くと「勢い」が復活しうるという主張がしたかった記事なのだ!!!!!!!どわお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

おわり!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

~fin~

 

小結 勢 大相撲サインカードBBM2015

!超1人限定勢 大相撲カード BBM2015

AIが絵を描く時代について絵描きが思うこと

AIが達者な絵を描いてくれた!的なツイートでタイムラインが埋め尽くされたり、

「そのイラスト生産AI、近々無料で使えるように公開するでー」なんてニュースが出回ったりしてるそうです。ついでに日記。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

・写真が誕生したときとおんなじくらいの「危機」らしい?

 写真が発明されたときも「絵ってオワコンじゃね?w」みたいな雰囲気がわりと流れた、なんて話も歴史的にあるので、

この「お絵描きAI」登場と拡散によって多少なりとも生まれる「絵描きってオワコンじゃね?w」の波に、時代の絵描きはいま一度耐えたり工夫したり、なんかしなきゃいけなかったりしそうな感じはあるわけです。

一応絵をかいて暮らしている人間なので、現時点でどう思っているか人間一人分書いておこうかなと思います。

 

・絵描きはAIによって死ぬのか?

 個人的には、AIはどこまで行っても「文房具」という認識で。

 言ってみれば、いま私たちが使ってる液タブやお絵描きソフトも「文房具」で、お絵かきAIもその仲間だと思うわけです。

 で、AIに仕事を奪われる、というよりは、

 「AIを文房具として活用できる絵描き」とそうじゃない絵描きの間に、ある種の雇用格差とかが生まれうるのかな、という認識。

 

・人間は人間に用事がある(気がする)

 で。

 ビジネスシーンで「この背景はAIでじゅうぶんやな」という場合はあれなんやけど。

 個人的にあの人の画集がほしい!っていうシーンそのものまではさすがに消えないと思うわけです。

 (写真が生まれても、過去の画家たちの名画はかわらず楽しまれているわけですしお寿司回転ずし)

 そのへんのまあ、「人間に用事があります」みたいな雰囲気までいきなりなくなるわけじゃないというか、

 人間はあくまで人間に用事があるというのは、100年200年という単位ではさすがに変わらんやろ、と個人的には楽観的に構えるなど。

  

・AIがいようといまいと、どうせ描きたい人は描く。が...

 これはこないだツイッターでもつぶやいたけど、

 自動車が発明されても陸上選手が己の限界に挑戦することをやめないように、

 絵描きもやっぱり、自分の中から何がでてくるかという挑戦はするでしょう。

 (手がうまくかけた!みたいな達成感はそれ自体が楽しいですし)

 

 ただ、陸上選手でも出かけるときや遠征のときは普通に自動車や飛行機に乗るわけです。

 そんなかんじで、活用できるひととできない人の格差は出そうだし、そういうかんじの格差自体は別に今に始まった話じゃあないかな、という印象。

 

・わたしたちの本当の課題

 自分自身のセンスや、「今自分が感じていることへの信頼感」というものが、結局はAIの登場でもう1段階揺らいでいくっていう危機感はあるわけです。

 

 わたしたちがAIに頼りたい心理ってなんなのかというと、

 それは「まっすぐした線を引きたいけど自分では無理だから定規でやる」というあの気持ちの延長だと思うわけです。

 たとえば自分自身の「からだのつかいかた」とかスキルを信じられる場合、ある程度文房具に頼らずやっていけるわけですが、そこまでいくためには修練が必要なわけで。誰もができるわけでもない。

 

 道具を使うのはいい。しかし、やはり道具を使った分、人間の感覚はまた1段階鈍るはずです。同時に「自分自身への信頼感」とかも何段階か減ることになる。

 

 ただでさえ現代人は「自分っていましあわせなのか?」「自分はこの仕事続けたいのか?」みたいなことすらよくわかってないわけで。

 自分のやりたい仕事すらわからない。漠然と死にたくはない、という程度の解像度で生きている。

 自分が日々何をどう感じて生きているのか、ということに信頼感がないというか、いつも疑いが残っているのでそういう感じになったりする気はするわけです。

 なんか運動を始めようではないかというときも、適当に散歩して、適度に気持ちいいくらい疲れたら適当に切り上げて帰ってこればよいのに、わざわざネットで調べて「散歩は20分以上!」とか決めてから散歩に行く。

 「自分の体」から始めるのではなく、なんか体じゃないどっかから持ってきたもので始めてしまう。

 

 「自分の感じ方」に自信がないから、「どっかから引っ張って来たもの(情報)」で生きていく生き方ばかりになってしまうという。すると、もう何分散歩したらいいのかすらわからないという。

自分のからだなのに。それってちゃんと生きてるって言えるんですか?自分の感覚なのにわからないのですか?というポイントで。

 

問題はそこだと思うわけです。生きているとは、感覚があるということなのですから。

 

・まとめ

 そういう、「自分はどう感じているのか」というところをいまいち信じられないというこの重心の浮いた感じそのものがわたしたちの課題だと思うので、

 このAI騒動で、いい機会なので、いっかいその辺にみんなの目が向いたらええんでないかなと思ったりするなど。

 

 一応そこをおさえておくならば、AIを活用するなりAIにケンカ売ってみるなり好きに過ごしたらええんでないかな派でござり申した。まる。

 

了。

AIに負けない子どもを育てる

 

【ネタばれあり】シンウルトラマン観た感想と長澤まさみのケツの意味

シン・ウルトラマンを早速観てきたので簡単に感想を書くやで~

<!!!!!>以下「シン・ウルトラマン」「シン・ゴジラ」などのネタバレを含みます<!!!!!>

S.H.フィギュアーツ ウルトラマン(シン・ウルトラマン) 約150mm ABS&PVC製 塗装済み可動フィギュア BAS60867

 

 

・シンウルトラマンは「政治SF」+「バディもの」

 前回の庵野監督作品「シン・ゴジラ」は政治SFとしての色合いがかなり強かったのですけど、今回もそんな感じでした(好き)。

 で、それに加えて「シン・ゴジラ」とさらにちがうのは、今回は微妙に「バディもの」としての側面が描かれている点。

 

 映画シナリオの典型の1つに「バディもの」というジャンルがあります(

ハリウッド式脚本術を解説した「save the catの法則」に詳しい)。

SAVE THE CATの法則 SAVE THE CATの法則

 

 ほかの映画でいうと「名探偵ピカチュウ」とか「メンインブラック」などがそんなかんじ。

 主人公がほかのだれか曲者とペアを組まされて、いろいろ衝突しながら信頼関係を深めていくっていうあれです。

 で、今回の「シン・ウルトラマン」は、主人公の神永(斎藤工)とヒロインの浅見

長澤まさみ)の「バディもの」としての側面がしっかり描かれているわけです。

 

 この点が実は、「シン・ゴジラ」には足りなかったあれやこれやを巧みに補う感じになっている気がしました。(適当)。

 

 

・「シン・ゴジラ」になかったロマンス成分と色気成分を克服?

 「シン・ゴジラ」では主人公とヒロインが特にイチャイチャせず、全体的にお色気シーンもなく硬派なかんじで終始していたわけで、その点は実は批判があったりしたそうです(どのくらい多かったかは知りませんけど)。

 

 その辺の批判を気にしてか、今回は意図的にお色気っぽいシーンがとくに中だるみしがちな映画中盤あたりで増えてきます(巨大化した長澤まさみのスカートの中がギリギリ見えないアングルとか、おなじく巨大化した長澤まさみがビルに肘鉄をいれるときの張りつめた胸のアップとか)

 加えて、随所で浅見(長澤まさみ)が自分に気合をいれるときに自分のケツをばしっと叩くのですが、このカットが何度も出てきて観客に印象付けられます。スクリーンに長澤まさみのケツがいっぱいに広がる。すごい(小並感)。

 

 そんな感じで明らかに意図的なお色気シーンの増殖ですが、これがちゃんとただの単発お色気で浮かないようにシナリオ上うまく組み込まれているわけです。その辺が巧みだなーと思いましたです。

 (巨大化した浅見(長澤まさみ)のスカート内を盗撮した画像がネットで流れてしまったものをメフィラス星人がきれいに消して見せることで外星人の能力の印象づけに再利用するわけです)

 

長澤まさみが主人公のケツをたたくことでバディものとして完成する

 で。さっき触れた「浅見のケツたたき」ですが、これがちゃんと「バディもの」として決定的な役割を担うわけです。

 主人公の神永とヒロインの浅見は最初なかなか折り合わないわけですが、おたがいの信頼関係がしっかり築かれたタイミングで、出撃する神永のケツを浅見がたたくわけです。

 自分にやっていた儀式をバディに対して行うわけです。

 これがちゃんと「シン・ウルトラマン」が「バディもの」として昇華された瞬間であります。ごちそうさまです。

 まあそんなかんじで、ただのお色気成分では終わらせないあたりが脚本と演技のすばらしいところ。

 

・いったんまとめ

 長澤まさみを起用してシンゴジラに足りなかった「色気」を克服する&ロマンスの追加しつつも安易なラブロマンスにならないように「バディもの」としてちゃんと政治SFに落とし込んだ「シン・ウルトラマン」。とってもよかった。

 

あとは構図とかカメラワークとかの話。

 

・退屈な画面にならないような配慮が今回も細かかった

 シン・ゴジラと同様に、会議室とかの会話中心のシーンでも面白い画角と構図で飽きさせない工夫がずっとあってよかったです。

 あと個人的に手持ちカメラの撮影のやりかたとタイミング、使う分量みたいなのが絶妙ですごくよかったです。

 「固定だとちょっとよわいな」というところでパッと手持ちに切り替えて見せるフットワークの軽さがきもちよい。

 

・異星からの脅威が「政治的なもの」として降りかかる恐怖

 怪獣(禍威獣)とか外星人(宇宙人)が襲ってくる恐怖をちゃんとある程度政治的なものとして描かれているのが妙にリアリティ?というかなんかがあってなんかよかった(適当)。

 科学力もあってしかも外交手腕的な頭の良さも持っている異星人に目をつけられたらほんとやばいなーって感じが、なんとなくこどものときにみたウルトラマンより身近な恐怖に感じられてその辺が新鮮でした。

 

ウルトラマン頭よすぎ問題?

 ウルトラマンが地球人とバチバチの科学的な話を聞かされて「要するにこういうことだな」と瞬時に理解しちゃうかんじとかが、なんか「あ、このひと外星人なんだ」ってかんじで新鮮。ウルトラマンって結局ベースは人間やし頭脳もちょい頭いいくらいかなー的なスタンスで見ていたので、ウルトラマン自身の頭の良さ的なのがなんか面白かったというか新鮮というかへ~~~という感じだった。うまくいえない。

 

(「プランクブレーンって何???」みたいなかんじになったけど、大学の時物理で「プランク定数」とか「プランク秒」「プランク長さ」(宇宙で一番短い単位、長さとか?)をいちおう聞いたことがあったので「たぶん謎のプランク空間?的なところがあってそこを出入りしたりするんやろな」ってかんじでギリギリついていったような雰囲気だったでした)

 

・まとめ

よかった。

 

とりあえず自分の漫画とかもあらためて頑張ろうと思いましたまる。

映画見るのって創作意欲を掻き立てられていいね。ほな。

読者にオチを読ませない「さよなら絵梨」のラスト前に仕組まれた巧みな罠について(個人の感想、ネタばれあり)

藤本タツキ先生の200ページ読み切り

「さよなら絵梨」を読んだので感想かくで~

!!!ネタばれがあるので注意!!!

 

shonenjumpplus.com

 

・映画を意識した横固定のコマ+要所での大ゴマ

映画製作というテーマで一貫している漫画作品だったこともあって、

コマのかたちがほぼほぼヨコイチで固定されて進行。

漫画は「紙の上でやる映画」とはよく言いますが、

実際の映画は漫画のように画面(コマ)が縦になったり横になったりしないので、

あきらかに本チャンの「映画」を意識したページ構成が目立ったでした。

 

・映画1本分を”ちゃんと”漫画にするとこういうページ数になるという好例

チェンソーマン」でもわかるとおり、タツキ先生ははっきりと「漫画=映画」というつもりで画面構成・構図をやってる人なんだとおもうので、

このコマ割り進行はずっとやりかったんやろなという感じがしたです。

コマの形が一定でも全く窮屈感なく楽しめたのは構図が良いから。

 

しかしこのやり方をやると1ページがたった4コマで消費されてしまうので

濃厚な映画一本分のストーリーをまともにやろうとすると150~200ページになってしまうわけです。たぶん。

通常の紙の商業誌の読み切りの分量でこのコマ割りは現実的ではないので、

こういう漫画の読み方ができる現代のわいらは確実に幸せとおもうマンです。

 

あと、要所要所ではちゃんと1ページぶち抜きのコマを使ったりして、漫画という媒体の強さも利用してパンチ食らわせるところはちゃんと武器使うってかんじでよかった。

 

・手元のスマートフォンでの撮影の生活感によるマジック

どこまでが「漫画の中で撮っている映画(主人公が手で持ったカメラで撮ってるもの)」で、どこからが「今おれたちがほんとうに見せられている映画(「さよなら絵梨」そのもの)」なのか。

そこの境界を意図的に行ったり来たりして、「なんだ、演技か」とおもってほっとしていたところに「え、まじで?」となる展開を持ってきたりして、読み手が安心しきらないように作っている気がした。しらんけど。

ちゃんと主人公がカメラをスタンドにセットしてとっているときは手振れ効果は描かれず、手に取っているときはこまめに手振れを入れる。まめ。

あとカメラを持っている手がバッと動いて画面の角度ががっと変わるとかそういう手撮り感もこだわっててよかったまる。

 

・ラストシーンに仕組まれた罠

で。主人公が大人になって、家族と父を事故で亡くして。思い出の廃墟ビル。

絵梨さん再登場。

あそこのシーンからはカメラの台数がいきなり増えるんです。

あきらかに主人公のスマホ1台じゃない。主人公の一人称視点じゃない。

めちゃわざとらしくイマジナリーラインこえてるシーンもあるし。

 

だから「もうファンタジーじゃないよ」「もう映画じゃないよ(スマホ撮影じゃないよ)」という宣言が画面で暗になされているわけです。

それまでずっと一人称で撮った映画(ファンタジー)をわたしたちはみせられていたわけですから。(実際、絵梨本人も吸血鬼でありながら「それはファンタジーじゃない」と言い放っているわけです)

 

いままで「あれ?今は映画の話?現実の話?」って揺さぶられてきたので、こういうカメラワークになったので、おやおや、どうやらおれたちやっと「現実」に戻ってきたのかな?とだまされる。

 

で、「そうそう、いまはファンタジーじゃないですよ」という宣言をずっとやっておいて、最後にどかんと爆発してファンタジーをいれるわけなのです。

そりゃあずるいよ先生。

 

 

・救いの爆発オチ

なにはともあれ、最後にあの爆発オチを持ってくることで「はい!!!!!こういう「映画」でした!!!!!!!!!!!!!!デュッデュ!!!!!!」という風に描くことで、

最後に読者は草をはやしながら安心しつつも「やられた!」という謎の読後感を満喫する感じなんやと思う。わいはほっとした。いい映画だった。

 

・「あ、これ映画だった」という安心感が生まれる瞬間

からくりサーカス」っていう藤田和日郎先生の漫画があるんです。

あれはあれで、劇中でキャラクターが壮絶な最期を迎えたりいろいろしてしんどい場面も多いお話なんですけど。

でも最後の最後に、それまでの主要な登場人物がフィナーレで再登場して「いままでのお話はサーカスの舞台上でのおはなし(フィクション)だったんやで~~~!」と大団円を組んで華々しく終わる、という演出があるんです。

で、やっぱりちょっとほっとするんですよ。あれを見せられると。

あんとき死んだキャラクターは「そういう演技」だったんやでと。

心配しなくてええんやで、という。

「漫画のキャラクターたちが、漫画の中で映画・舞台、フィクションをやっている」という仕組みにすることで、わいらが劇中で味わった苦しみ(キャラクターの死とか)をなんというか救うことができるわけです。うまくいえないけど。

最後の爆発オチはそういう効果もあって、人によっては精神的にかなりスッとした読後感を味わったんじゃないかなと思うマンです。わいはすくわれたほう。

 

・男は女を救えるか

さて。一度自殺まで考えた主人公だったが、きれいな女の子に「きみ超いいよ」って言われたら一転元気になって「自殺なんてやめておけ!メメントモリ!」とかぬかすまで回復する。男なんてそんなもんだっていう描写も「そうなんだよなぁ」という感じで好き。

女は男を救える。これポイント。

しかし、逆はというとやっぱりできてるようでできてないんであります。

 

絵梨は吸血鬼なのでもともとほぼほぼ不死身で。主人公が絵梨にしてあげられることはほぼほぼない感じで。ぎり映画撮っておくぐらい。

それってやっぱり「吸血鬼の養分になってる」っていうかんじで。

男が女を救っている、というよりは、まあ、養分になってますっていうかんじ。

救うことと養分になることってやっぱちがうよねっていうあれはある。

 

・この世を支配しているのは女

なんかこういう、「女には勝てません」みたいなエッセンスってチェンソーマンでもマキマさんとかがそんなかんじで出るじゃないですか。

男が女に勝つにはなんかこう、もう、裏技でも使うしかないなって感じ。

タツキ先生もわりとそういう男女観なのかなーと邪推してなるほどと思うなどして感想文を終わる村。

Q:絵を描いた直後は微妙なのに時間を置くとよく見える問題

せや、「文章とかのほうがすぐ読めてうれちいんやけど」という人のためと、機能してないブログを改善するために動画の内容を適当に文章にまとめてここに投げればみんな幸せでは?

※正確な文字おこしだとだるいのでたぶんざっくりとした内容のまとめになる

 

この動画。ね

 

Q.自分で描いた絵が、描いた直後はあんまりいい感じに見えなくてションボリします。でもあとから見ると悪くないジャンとか思うこともあります。でも描いた直後はよく見えないので描けば描くほどモチベーションが下がります。絵を描いた達成感より徒労感が勝ちます。最初から悪くないじゃんと思える方法を教えてくだちい。

 

A.

この現象、仮に「お絵描きションボリ現象」と呼ぶんやけど。

これは創作屋にとってはある程度仕方ない現象なのかなとわいも思っています。

 

というのも、1枚の絵が完成されるまでは、作家はずーーーーーっと同じ作品と向き合うことになります。

ずっーーーーーーーーっと同じご飯を食べているようなかんじになって、

なんだかよくわからなくなってしまう。

どんなにおいしいご飯もずっとたべてるとだるくなるように、

ずっと同じ絵を描いていると「???????」となってしまう。

 

簡単に対策は2つ。

「飽きが来る前に(余計な不安や疑問があがってくるまえに)ぱぱっと気持よく描き切ってしまう」

か、

「描いた後一晩おいて、あらためて見てみて、そのうえで「いいじゃん」ってなったらアップする。だめだったら手直しか没にする」。

 

書いてる最中や書き終わりで「??????」となるのは、時間をかけた作品にはありがちだし、経験のある作家でもわりと避けられない感覚なんじゃないかな?という予測がわいにあるので、あんまり深刻に悩まないで、詰まったら寝るというのがいいんでないかというお話でした。

 

で、こっからは与太話。

 

わい自身は「ナックルビッグシルエット」を描いたときにちょうどこんな気持ちになったわけなんです。

matsumura.booth.pm

 

これがモノクロ100ページくらいアナログで書いた漫画(バンドデシネ)で。

1年弱くらいはずっとこれを書いてたわけです。

あんまりにも製作が長期化したので、書き終わるころには「これちゃんとお話になっとるんやろか??????」と疑問がかなりあったわけです。

 

しかし、この漫画を発表してから2,3年くらいたった今、あらためて自分のこの漫画を読んでみると「あれ?ちゃんと描けてるじゃん」と思ったりするわけです。

 

この流れから考えてみると、

長く付き合った作品ほど、その作品にたいして冷静になるまでに(つまり、当時悩んでいたほどには悪くない出来だったじゃん、と納得するまでに)同じくらいか倍くらいかかるかもしれない、という予測がなんとなく自分の中で立ってくるわけであります。

 

そんなわけで今回のお話、まあそんなもんなんやな、というくらいの感じで覚えておくとどこかで役に立つといいね。

ほな、また。